「世界にたったひとつしかない」音楽に魅力を感じ、「人の心に明かりを灯す音楽を創りたい」と作曲の道を選んだ私は、 芸術大学でクラシックの作曲を学び、ピアノ曲から弦楽四重奏、合唱曲やオーケストラなど作曲しました。大学院修了後、 音楽制作会社へ作曲家として就職し、クラシックだけでなく多種多様な音楽を創りました。
例えば、ミュージカル、小学校のからくり時計の音楽、よさこいダンスチームの音楽、万華鏡館の音楽、コマーシャルソング (JR、マックスバリュなど多数)、ラジオ番組(桂竹丸の番組や他トーク番組など)の音楽、PlayStation、XBOX、 任天堂などのゲーム(ドラえもんなど)の音楽や、パソコン付属(SONY Vaio)の音楽やパソコンソフトの音楽、 イメージソング、人形劇や演劇の音楽など。ヴォーカリストとして歌も歌い、声優としても活躍しました。
朝から晩まで曲を創り続けていても、疲れたと思うことは一度もありません。楽譜を清書するだけでも、 面倒だと思ったこともありません。ただ、制作会社で創る音楽は、時として無機質に思えて、そんな音楽を永遠と創り続けることや、社内の人間関係にも苦しくなったりと、だんだんと自分を見失っていきました。
自分は、
音楽を創る機械じゃない。
会社を辞めた後、子供たちの創造性教育に力を入れるNPO団体が声をかけて下さり、何度か小学校で音創りワークショップをしました。いわゆる問題児扱いされる子供たちの方が柔軟で輝き、先生たちが驚くことがよくありました。自分が子供の時にこんな授業があったら良かったのに・・とつくづく思います。作曲というのは、音を使った自己表現。音に耳を澄ますこと。そして、音楽がどのように出来ているのか。 シンプルに作曲を教え、返ってくる子供たちの澄んだ音を聴いて、やっぱり自分は作曲が好きだと思いました。
その後、自分の音楽を探す気持ちで、海外放浪の旅に出ることにしました。
ニュージーランドの音楽プロダクションで、バックパッカーズ(ホテル)などのCM音楽やイメージソングを創らせてもらったり、ニューヨークやカナダで映画音楽制作関連のワークショップを受けたりと、それまでとはちがう環境で音楽に触れることができました。 帰国後、映像制作会社で編集をする傍ら、ようやく自分の音楽を創ろうと、準備を始めました。
その日は突然やってきました。
難病とよばれる病にかかったのです。
病名はリウマチ。「リウマチって、年取った人がなるものじゃないの?」とよく言われますが、若い人でも発症することもあり、発症の原因は不明なのです。基本的に薬で抑えることしかできない難病で、若い時になるほど進行が早い上、痛みが激しく、想像以上に厄介な病気です。
全身が次々と痛み出し、動くことができない。痛くて眠れない。
鉛を背負っているように体が重く、歩くことは勿論のこと、 地に足をつけて立っているだけでも辛い。 口が1センチしか開かなくなって、食事が喉を通らない。 お皿を持つことすら重くて、プラスチックのお皿を買ってきました。 服を着替えるだけで30分もかかります。
息をすることが、精一杯。
「生きる」ことが「苦しい」。
痛み止めを呑んだら、まるで魔法のように普通に動けたけれど、 そんなのはつかの間。胃がやられ、もどして1ヶ月食べられなくなって、 ようやく食べられるようになったかと思うと、今度はお腹が空いて仕方がなく、 1日5食も食べても、どんどん痩せて体重が30キロしかなくなりました。全身が24時間痛くて眠れず、こんなに苦しいなら死んだ方が楽になるかも、と何度も思い、どれだけ泣いたかわかりません。病院の薬を溜め込んで、いざという時はまとめて飲んでしまえ、と、いつでも自ら命を絶てるよう、用意をしていました。
リハビリに行っても、みんなから同情の眼差しを受け、 「あの子、若いのに足が悪いのね」と陰でささやく人もいれば、 ガイコツのような自分に親切にしてくれる人もいました。
「あんたも私みたいにガリガリやね~。」と言って、温泉の脱衣所で初めて会ったおばあさんに、「さっきデパートで買ってきた」 といって、あられの袋詰めと、「今日はなんだかいい日になりそう」 というお地蔵さんの絵葉書をもらい、涙が頬を伝いました。
別の知らないおばさんは、湯船の外で座るときにお尻に敷く、 お尻マットを買ってきてくれました。 遠くのエレベーターでも、「急がなくていいよ!」とずっとドアを開けて待っていてくれる人もいました。 何も聞かず、いつも笑顔でひたすら応援してくれる人もいました。 名前も知らない人が、自分の回復を喜んでくれました。
何歩か歩くだけで辛くなり、
立ち止まり、
じっと空を見上げる。
あぁ、私は生きているんだ。
透き通るような青く広い空と、優雅に自由自在に形作る真っ白な雲が、その空を泳ぐ。
美しい新緑の葉たちが、頬をなでるように風に揺られ、こすれあって、さわさわと音をたてる。
小さい小さい音がする。
ゆっくり歩いたからこそ、
見える景色があった。
立ち止まったからこそ、
聴こえる音があった。
耳が開いた瞬間でした。モノも音も、ずっと前からそこにあったはずなのに、感覚がちがう。自分の感覚が、すっかり変わってしまったのを感じると共に、音楽が、次から次へと天から降ってきました。
音楽を、
創りたい。
けれど、体が痛くて、楽譜を書くことも、パソコンで音を創ることもできない。
音楽が創りたいのに、創れない。
このまま動けなくなるのかな。
そんな不安がなかったと言えばウソになります。
一年、二年、三年、
ただ痛みに耐えた。
四年、少し痛みに慣れた。
人の温もりで、
いつも胸がいっぱいだった。
助けてもらうばかりで、
申し訳なかった。
人に手を差し伸べられなくて、苦しかった。
そんな中、ずっと、
信じてきたことがあります。
病気になったのは、
何か必ず意味がある、と。
生きることで精一杯だったけれど、頭の隅でいつも考え続けました。
出会った本や人に言われた言葉の意味を、考え続けました。
いつしか、すべてがありがたく思えるようになりました。家族にだけでなく、ここに在ること、この社会を支えている人がいること、他の人が生きていること・・・。世界が美しくて、ただただありがたくて、涙が出ました。
いつも、いつも支えてくれる人に、「ありがとう」と何度言っても、とても足りないと思いました。 でも、どうしてもこの感謝の気持ちを伝えたい。今の自分には何も出来ないけれど、この思いだけは、何としても伝えたい。
忘れかけていたものが、
よみがえってきました。
自分には唯一、
音楽を創ることができる。
痛みに耐え、3ヶ月間かけて、必死な思いで、100万回の「ありがとう」を込めて音楽を創りました。 何年もの長いブランクを経て初めて、自分の心の底から湧きあがる、魂を込めた音楽を創り上げたのです。
まだ思うように体を使えませんでしたが、その時をきっかけに、それまで体の中で癒してくれていた音楽を、少しずつカタチにして、外へと放出していくことができるようになりました。
それまで自分を癒してくれた音楽たちが、今度は他の誰かを癒すために。
ただ息を吸って生きることが、こんなにも大変だと初めて知ったから、 世の中の人々が「生きている」ことが、とても貴く思え、そして、 小さくても大きくても、どの人も、みんなそれぞれ辛さや悲しみ、怒りや不安など、 何かしら抱えて生きていると知りました。
だからこそ、精一杯生きる人の力になりたい。
自分の創る音楽が、
そんな人々の
心の癒しとなって欲しい。
随分と苦しい思いをしたことで、私の心は、いつしか人の心の痛みと共鳴するようになり、人に意識を向けると、その人の魂に必要な音楽が降ってくるようになりました。
美しい音楽を創って、人の心を豊かにする。
今思えば、子供の頃の、「人の心に明かりを灯す音楽を創りたい」という思いは、 忘れていたようで、ずっと繋がっていたのだと思います。けれどそれは、“人の心”ではなく、 “自分の心”なのかもしれません。
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